加子母村の中島工務店さんを訪ねました

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 中小企業家同友会の5月地区例会は、マイクロバスをチャーターし、中津川市加子母にある株式会社中島公務店さんを訪問した。報告者は社長の中島紀于(のりお)さん。国道まで出て、私たちのバスを待っていてくれ、案内して走った。71歳とは思えない元気さだ。
 工場の2階会議室に通される。机もいすも木製。説明はなかったが、加子母村の木でできているに違いない。先に解説しておくと、中島工務店のビジネスモデルは全国でも数少ない、林業・製材業・建築業が同一地域内で完結する「完結型林業」。加子母の木と加子母の職人で「東濃ヒノキの家」を一棟丸ごと、全国どこでも行って建ててしまうのである。「産直住宅」である。中島社長のお話が始まる。
 「加子母村は3000人の村だったが、10年前中津川市に併合されて83000人の市になった。市の北の外れで、電気がやっと来たところ、日本語がようやくしゃべれるようになったところだ」、とユーモアたっぷりのお話である。
 中島社長は加子母村で生まれ、「昭和38年に岐阜工業高校土木科を卒業し故郷に帰ったら父が大手術をして弱っていた。食うために土建屋を始めた。以来ずっと建設業を続けている。父も一緒にやっていたが昭和43年に49歳で急逝、その後会社組織にして続けている。
 「もともと土方が建築をやるようになって家造りもしている。主に木材を使った仕事を関東・関西・中部でやっている。村の95%は山だ。ヒノキ、スギは雑木を炭にしてから植えた。アカマツ、モミは自生だ。クリ、コウヤマキ、ネズコ、サワラもある。たくさん取れる木材を全国へ建材として売っている。美濃の特産物である東濃ヒノキだけでなく、美濃和紙・飛騨家具も使っている。名古屋インターまでは1時間半で行けるから、名古屋も地元だ。国・県・市の仕事、東濃ヒノキの家造りの他、寺、宮を造る。長久手では平成こども塾を造った。特によい木材は社寺に回す。岐阜では可児にも事務所があるし、東京・大阪・神戸にも拠点があり、各地にモデルハウスを建てている。東京は新木場駅前にモデルハウスを造った。目の前に日立ソリューションという2万人の従業員を持つ会社があるから、1棟3000万円の売上として勘定すると楽しくなってくるが、実は景気は大変厳しい。」
 「木の家造りを徹底的にやる。1日1棟売れば100億の木造建築ができる。そうすると15億の木材が売れ、この辺の材木屋は皆食える。それが国土を守ることになる。木造の家の価値を理解してもらいたい。」
 「日本には林野庁、林業行政はないなとつくづく思う。TPPから木材は最初から外れている。しかしつぶれても何でもやっていかなければならない宿命がある。ここでやっているのは製材、乾燥、プリカットだ。この地域の木材で家造りする。『完結型林業』だ。200年、300年、400年と長持ちする家を造るのだから、会社がつぶれないようにしないといけない。」
 ところで「木造建築は日本の大学の教科にない。だから大学生が加子母に勉強に来る。毎年300人くらい来て、木造建築を実践する。昔東大の安藤直人先生の勉強会が毎週火曜の夜7時からあって東京に通ったことがあるが、学生たちは頭はいいかもしれないけど、娑婆のことを知らんなと思った。口で壁は塗れん、木は切れん、穴は掘れん。頭だけではだめ、手でやることを覚えよ。いい大学を出ても何の価値もない。こういう考えでやっていくと日本はつぶれてしまう。加子母のことを知らん木造建築家はもぐりだ。安藤忠雄も唯一の木造建築を加子母に建てている。これを20年やっているから、学生が大学院を出て加子母に帰ってくる。星は降るほどだし、そこらの水飲んでも腹痛くならん、トマトが食べたきゃ『これ熟れすぎとらん』と言ってみればもってけと言われる、そういう村民性が彼らを呼ぶようだ。」
 「考えるのは、これからどういうふうにやっていくのか、この広い山に植えた木で加子母村はどうやって存在していこうかということだけだ。綱渡りの商売やって、貧乏こいて、50年やって思うことは、とにかく儲からんが、会社をどうしていこうとか、金儲けのことではない。木材だけでなく、鉄骨工場や浚渫の事業も引き取った。工事は何でも内部でできる。ここから、日本中、世界中へ加子母の木材を持って行って木の家造りをする。」
 「共同店舗も引き取った。食品はプラスになるが、本とか靴とかは赤字だ。3000人、つまりマンション1棟分しか住民がいないところになぜスーパーを造ったかといえば、都会で結婚して嫁を連れて帰ってきた者のためだ。バローにお願いしたら「いやや」と言われたからだ。戻ってくる者のうちには出戻りの女性がいる。彼女たちがパートで働く場にもなる。加子母には嫁のいない者もいるからそのうち一緒になる。そういうのも仕事の一環だと思う。NPO加子母むらづくり協議会は会員が900人だ。都会で良いDNAを拾って子をなし、別れて戻ってきた女性と、へにすい(名古屋弁だと「にっすい」)けどまじめに一生懸命やるやつが一緒になる。このコミュニティをどうやって楽しくやっていくかが課題だ。村内には飲み食いする店舗が38もある。板東英二や石原良純が営業マンだ。本格的なフランス料理もあるし、うなぎ屋もある。」
「会社はいま社員が350人で、この地域が8割だ。協力者は700人いる。加子母は112平方キロメートルの土地だが、人が住んでいるのでうまくいく。住んでいなければ濃尾平野は水浸しだ。この地域で商売を傾かんように、あんまりもうからんように、長続きさせたい。やっぱり仕事は人生の6~7割あるから、仕事に人生をかけられるような会社にしなくてはならない。この地域に住み続けてこの地域の世話をし続けていかないかんな。うちから会社までは2.5キロある。寒いから、歩いてこれる日はいくらもない。『コンパクトシティ』といって老人を駅の周りに集める構想があるが、3年やったらこのあたりは終わりになる。」加子母の自然を守ることは自分たちのためだけではなく下流の人たちの暮らしにも影響する、そういうスタンスなのだ。
 「このままだと戦争になる。まともな野党がいればいいが。日本を何とかしようと思うような教育をしないかんよ。加子母を何とかしようと思うような。」と、政治についてもコメントをくださった。
 1時間お話しになって、質疑応答の時間。
「外材と東濃ヒノキの違いは?」「ヒノキは強くていい香り、サワラは優しい香りがする。外材は、ヒバ以外は匂わない。規制されて、もう、いい木は切れないから入ってこない。今入る木は松かモミだ。モミはファーというが早く腐るから日本では卒塔婆に使う。」
「71歳からの社長のビジョンは?」「まだ71歳なので、80歳まではやりたい。よくやって30年だが、5年ピッチで考える。75歳の時にナンバー2たちが65歳になるからそのときにひっこむかも。この辺は80台は皆現役で農業をやっている。90歳でゲートボール、100歳でやっと死ぬ。こういう世界にしないと日本はやっていけない。うちでも65歳定年、70歳まで継続雇用にしている。みんな死ぬまで働く。医者にいっとる暇もない。」
 
 続いてグループ討論を行い、会場を移動して「天照庵」で天ぷらそばを賞味、戻ってプレカット工場、ヘビーティンバー工場、グルーラム工場、乾燥機を1時間半ほど見学の後、木の何でも市、コンクリート工場、かしも産直市・木端市、販売中の「籠藪の家」を見学し、中島社長とお別れした。たくさんの資料、パンフレット、カレンダー、ヒノキのボウルやターナーセットなど、お土産もどっさりいただいた。カレンダーの一つは「かしもの四季」というタイトルで、中島社長の撮った植物の写真に一言ずつコメントがついている。そしていずれにも「地球に生きる。自然に生きる。加子母に生きる。」と言う理念が表明されている。中島社長の考える加子母の存在意義と、加子母の自然・暮らしを愛する気持ちが集約された言葉である。中島社長に、私が登山が趣味である旨話したら、ぜひ小秀山を登りにおいで、年に4回登る日があるからと誘われている。今度は山で社長に会いたい気がしている。→かしも山歩倶楽部

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